40期生活動報告

40期生活動報告

修学旅行に向けて

本日、4月の修学旅行の実施に向けて旅行係の集まりがありました。

委員長・副委員長を決め、しおりの表紙と裏表紙を投票しました。

まだまだ不安な日々が続きますが、生徒の皆さんは健康管理や感染予防に努め、無事修学旅行が行われるよう生活しましょう。

2年生 実力補習の希望調査について

進路実現に向けて、2年生実力補習を開講します。

2年生のみなさんは、8月27日木曜日に配布した案内のとおり、GoogleClassroomで申込登録をしてください。

締切は9月4日金曜日です。みなさんの積極的な参加をお待ちしています。

【開講講座】全9講座

英語長文講座

英語速読練習

英文法講座

数学実力アップ講習

基礎から始める小論文講座

基礎固め古典文法

看護向け講座

受験の日本史

公務員補習

「伝える」ために

みなさんにとっての伝達手段は何ですか?

 ほとんどの人が「スマホ」と回答するのではないでしょうか?「ガラケー」もほとんど見かけなくなり、「PHS」や「ポケベル」と聞いてもピンとこないでしょう。それ以前には、各家庭にある固定電話で連絡を取り合うことが主な伝達手段であり、都会では電話ボックスや公衆電話の前に列ができることもありました。急用でなければ「手紙」も重要な伝達手段でしたが、今はメールで早く手軽に代用できるようになっています。それでは、電話すらなかった時代には、離れた相手と連絡を取るためにどんな手段を用いていたのでしょうか?

 大化の改新で有名な中大兄皇子が活躍していた663年に白村江の戦いが起こりました。倭国(当時の日本)が朝鮮半島にあった百済国に援軍を送り、中国の唐と朝鮮半島の新羅国の連合軍と激突した戦いです。この戦いで敗れた倭国は、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて九州北部に防御施設を設置していきました。堀と堤によって築いた水城や、山を利用した朝鮮式山城などがつくられました。その頃、離れた施設で伝達手段として用いられたのが「烽(とぶひ)」です。敵の侵攻を確認した際に、日中は煙、夜間は火によって離れた味方に知らせる設備です。それに気づいた次の地点でも煙や火を起こしてさらに先の地点へとリレー形式で伝えていくことができました。ちなみに燃やしていたものは、煙が発生しやすい「よもぎ」や「わら」であったようです。

このような手段は、戦国時代にも活用されていました。戦国時代には「狼煙(のろし)」とよばれている手段です。戦国時代には、日々領地をめぐる争いが各地で起こっており、敵の侵入をいち早く知らせる必要がありました。それとは逆に敵の領地へ攻め込む際にも「狼煙」が使用され、煙の数や色を変えることで複数の指示を使い分けることもできたようです。それだけに、戦時に限らず、平時においても城や砦には「櫓(やぐら)」とよばれる見張り台が設置され、合図や異変を見逃さない工夫もされていました。

江戸時代に入ると、手紙や物を遠く離れた相手にできる限り早く届ける「飛脚」のシステムが発達していきました。古くは奈良時代の駅制(街道に16㎞ごとに駅家をおき、配置された馬を乗り継ぐシステム)から始まり、鎌倉時代からは「飛脚」と呼ばれるようになりました。江戸幕府専用の継飛脚は東京から京都までを68時間程で届けていたというのですから驚きです。しかし、「飛脚」は幕府や大名以外に、商人などが利用する程度で、庶民の手にはなかなか届かないものでした。

その「飛脚」を元に、明治時代に創設されたのが「郵便制度」です。1873年には全国均一の料金制度が実現して利用しやすくなりました。現在においても、同額の切手で全国各地に手紙が届きます。その画期的な「郵便制度」を創設した前島密(まえじまひそか)は、今でも1円の郵便切手のデザインに採用されています。

明治時代には、それまでになかった新しい制度も始まりました。それが「電信」です。「電信」とは、ケーブルを通じて信号を送るものであり、それによって電報のように文字を送ることができるようになりました。日本で初めて電信線が引かれたのは1869年、東京・横浜間でした。横浜には日本一の貿易額を誇る港があり、常に連絡を取り合う必要があったためです。その2年後には、海底ケーブルが長崎・上海間にも引かれるなど、海外との通信も可能となりました。さらに、1890年には東京・横浜間での電話サービスが開始されましたが、現在の価値に換算すると5分で2,250円相当の費用がかかったため、当初の加入者は200人にも満たなかったということです。アジア太平洋戦争後も電話は借りる物というのが一般的であり、家庭用電話の普及が9割を超えたのは1980年頃でした。

「電信」技術の応用が進められたおかげで、今現在では「無線通信」や「FAX」、そして「インターネット」など私たちの生活に欠かせないシステムが利用できるようになりました。離れた相手とつながる手段は多様で便利になりましたが、いずれにしても相手を思いやりながら言葉を交わしていきたいですね。

 

読書のすすめ

 今回は、日本史で登場する「読書」について触れていきます。

 臨時休業期間が長期化する中で、「本」の需要が増えているそうです。3月における書店の売り行きを参考にすると、学習参考書や図鑑などの人気が高いそうです。この機会に学習習慣を継続する意識が高まったり、じっくりと読み進める楽しみ方が広がっていることが分かります。現在の社会では、かかせない「読書」ですが、一体どのような歴史をたどってきたのでしょうか?

  そもそも「本」に必要な「文字」は紀元前から使用されてきました。世界史の教科書で最初に登場する文字は、シュメール人がつくったとされる楔形文字(くさびがたもじ)です。葦などの植物の茎を粘土板に押しつけて刻んだ形が、釘の先だけを切り取ったような▲の形が楔という道具に似ていたことから名付けられた文字です。焼かれた粘土板は時間がたっても形が変わらないため、今でも当時の形をそのまま見ることができます。この文字は少なくとも紀元前2000年以前に使用されていたものであり、その元となった絵文字は紀元前3200年頃のものとされています。

 日本史の教科書で、日本人が文字と関わるようになった出来事が登場するのは、紀元57年のことです。中国の後漢の歴史書である『後漢書』に、奴国(当時の日本列島にあった国家)の王が後漢に使者を送り、金印を与えられたことが記されています。その金印には、「漢委奴国王」という「文字」が刻まれており、これが日本史の教科書で最初に見られる「文字」になります。それ以後も、中国の王朝に使者を派遣していくことで、進んだ文明とともに「文字」にも触れていく機会が多くなっていったようです。日本国内で「文字」を本格的に使用した書物がつくられたのは奈良時代の頃です。それまでの日本の歴史や伝承についてまとめた『古事記』が712年に、『日本書紀』が713年に完成しました。その編纂が始まったのは681年頃とされており、30年程の長い時間をかけてつくられた「歴史書」です。その後も「歴史書」の編纂事業が続けられるほかは、役所で「文字」を扱う程度であったことから、「本」は読み物ではなく国の歴史を書き残すものとされていたのです。

 それでは読書の文化はいつ頃から登場するのでしょうか。

 それは平安時代の頃です。奈良時代から役所で「漢字」が扱われることが一般的となり、「漢詩」とよばれる漢字を用いた歌もよまれるようになると、平安時代には「仮名文字」とよばれる日本独特の「文字」が発明され、「かな文字」を使用した読み物がつくられるようになったためです。「仮名文字」は、現在私たちが使用している「片仮名」と「平仮名」のことです。読書を楽しむようになったのは、上流階級の貴族たちに限られており、代表的な作品に『源氏物語』があります。作者である紫式部が、当時の貴族社会を舞台に描いた作品であり、当時の実態を知る手がかりともされています。(現在、主人公である光源氏が現在にあらわれたらどうなるのかを描いた人気コミックをドラマ化した作品がNHKで放映されていますね。)多くの現代語訳がつくられ、漫画でもいくつもの作品がつくられているので、みなさんの中にも読んだことがある人がいることでしょう。当時の貴族社会でも、女性を中心に流行した作品であったようです。とはいっても、現在のように印刷技術は発達しておらず、原本を見ながら書き写すことでしか「本」を増やすことができないため、限られた数冊を回し読みしていたようです。また、当時の読者は上流階級のみに限られており、庶民のもとに「本」が行き渡ることはありませんでした。

 庶民に「読書」が広がっていったのは江戸時代の頃です。「本」の売買もされていましたが、購入できるのは富裕層が中心で、庶民たちは、今でいうレンタル本と同じように代金を支払って「本」を借りる「貸本」を利用することが多かったようです。その貸本屋を営んでいた人物として広く知られていのが蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)です。「つたや」と聞くと、現在の大手チェーン店を思い浮かべてしまいますね。(ちなみに、両者のつながりはなく、蔦屋重三郎にあやかりたいという思いから大手チェーン店の名称に使用されているそうです。)蔦屋重三郎は、江戸時代中頃の1770年代に耕書堂を開き、たくさんの有名な作家や絵描きをプロデュースし、その作品を販売していった人物です。280年以上続いた江戸時代は、大坂や江戸など都市部を中心に庶民文化が花開いた時代でもあり、庶民の間では「読書」も流行するようになっていきました。中でも人気があったのは、洒落本や黄表紙といった滑稽さや風刺を描いた作品であり、貸本でも予約をして待つ人たちまでいたそうです。1800年以降には、恋愛を扱った人情本や歴史を扱った読本なども人気を博し、都市部の庶民層でも「読書」文化が根付いていきました。地方や農村部でも寺子屋などで読み・書き・そろばんの習得が進み、明治時代の近代化を進める力となっていきました。

 明治時代に入ると、森鴎外や夏目漱石など文豪といわれる作家が数多く活躍していきます。新聞や雑誌も数多く出版され、情報の伝達も加速化していきました。大正時代には、文字通り1冊1円の「円本」が売り出されて大ヒットしたほか、発行部数が100万部を超える新聞や雑誌も出てくるなど出版の大衆化が進んでいきます。当時の1円は米10キロと同額であったことを考えると、今現在はより安価に「本」を購入できる環境が整っていることが分かります。

 現在は、Web上でも閲覧できる電子書籍など多様な形態がありますが、この機会を活用して家にある「本」を読んでみるのはいかがでしょうか。今まで味わったことのない世界観や初めて知る知識など、新しい出会いもあるはずです。過去の人々がしてきたように、読書を通じて自己の想像力を広げてみませんか?