40期生活動報告

40期生活動報告

「伝える」ために

みなさんにとっての伝達手段は何ですか?

 ほとんどの人が「スマホ」と回答するのではないでしょうか?「ガラケー」もほとんど見かけなくなり、「PHS」や「ポケベル」と聞いてもピンとこないでしょう。それ以前には、各家庭にある固定電話で連絡を取り合うことが主な伝達手段であり、都会では電話ボックスや公衆電話の前に列ができることもありました。急用でなければ「手紙」も重要な伝達手段でしたが、今はメールで早く手軽に代用できるようになっています。それでは、電話すらなかった時代には、離れた相手と連絡を取るためにどんな手段を用いていたのでしょうか?

 大化の改新で有名な中大兄皇子が活躍していた663年に白村江の戦いが起こりました。倭国(当時の日本)が朝鮮半島にあった百済国に援軍を送り、中国の唐と朝鮮半島の新羅国の連合軍と激突した戦いです。この戦いで敗れた倭国は、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて九州北部に防御施設を設置していきました。堀と堤によって築いた水城や、山を利用した朝鮮式山城などがつくられました。その頃、離れた施設で伝達手段として用いられたのが「烽(とぶひ)」です。敵の侵攻を確認した際に、日中は煙、夜間は火によって離れた味方に知らせる設備です。それに気づいた次の地点でも煙や火を起こしてさらに先の地点へとリレー形式で伝えていくことができました。ちなみに燃やしていたものは、煙が発生しやすい「よもぎ」や「わら」であったようです。

このような手段は、戦国時代にも活用されていました。戦国時代には「狼煙(のろし)」とよばれている手段です。戦国時代には、日々領地をめぐる争いが各地で起こっており、敵の侵入をいち早く知らせる必要がありました。それとは逆に敵の領地へ攻め込む際にも「狼煙」が使用され、煙の数や色を変えることで複数の指示を使い分けることもできたようです。それだけに、戦時に限らず、平時においても城や砦には「櫓(やぐら)」とよばれる見張り台が設置され、合図や異変を見逃さない工夫もされていました。

江戸時代に入ると、手紙や物を遠く離れた相手にできる限り早く届ける「飛脚」のシステムが発達していきました。古くは奈良時代の駅制(街道に16㎞ごとに駅家をおき、配置された馬を乗り継ぐシステム)から始まり、鎌倉時代からは「飛脚」と呼ばれるようになりました。江戸幕府専用の継飛脚は東京から京都までを68時間程で届けていたというのですから驚きです。しかし、「飛脚」は幕府や大名以外に、商人などが利用する程度で、庶民の手にはなかなか届かないものでした。

その「飛脚」を元に、明治時代に創設されたのが「郵便制度」です。1873年には全国均一の料金制度が実現して利用しやすくなりました。現在においても、同額の切手で全国各地に手紙が届きます。その画期的な「郵便制度」を創設した前島密(まえじまひそか)は、今でも1円の郵便切手のデザインに採用されています。

明治時代には、それまでになかった新しい制度も始まりました。それが「電信」です。「電信」とは、ケーブルを通じて信号を送るものであり、それによって電報のように文字を送ることができるようになりました。日本で初めて電信線が引かれたのは1869年、東京・横浜間でした。横浜には日本一の貿易額を誇る港があり、常に連絡を取り合う必要があったためです。その2年後には、海底ケーブルが長崎・上海間にも引かれるなど、海外との通信も可能となりました。さらに、1890年には東京・横浜間での電話サービスが開始されましたが、現在の価値に換算すると5分で2,250円相当の費用がかかったため、当初の加入者は200人にも満たなかったということです。アジア太平洋戦争後も電話は借りる物というのが一般的であり、家庭用電話の普及が9割を超えたのは1980年頃でした。

「電信」技術の応用が進められたおかげで、今現在では「無線通信」や「FAX」、そして「インターネット」など私たちの生活に欠かせないシステムが利用できるようになりました。離れた相手とつながる手段は多様で便利になりましたが、いずれにしても相手を思いやりながら言葉を交わしていきたいですね。

 

読書のすすめ

 今回は、日本史で登場する「読書」について触れていきます。

 臨時休業期間が長期化する中で、「本」の需要が増えているそうです。3月における書店の売り行きを参考にすると、学習参考書や図鑑などの人気が高いそうです。この機会に学習習慣を継続する意識が高まったり、じっくりと読み進める楽しみ方が広がっていることが分かります。現在の社会では、かかせない「読書」ですが、一体どのような歴史をたどってきたのでしょうか?

  そもそも「本」に必要な「文字」は紀元前から使用されてきました。世界史の教科書で最初に登場する文字は、シュメール人がつくったとされる楔形文字(くさびがたもじ)です。葦などの植物の茎を粘土板に押しつけて刻んだ形が、釘の先だけを切り取ったような▲の形が楔という道具に似ていたことから名付けられた文字です。焼かれた粘土板は時間がたっても形が変わらないため、今でも当時の形をそのまま見ることができます。この文字は少なくとも紀元前2000年以前に使用されていたものであり、その元となった絵文字は紀元前3200年頃のものとされています。

 日本史の教科書で、日本人が文字と関わるようになった出来事が登場するのは、紀元57年のことです。中国の後漢の歴史書である『後漢書』に、奴国(当時の日本列島にあった国家)の王が後漢に使者を送り、金印を与えられたことが記されています。その金印には、「漢委奴国王」という「文字」が刻まれており、これが日本史の教科書で最初に見られる「文字」になります。それ以後も、中国の王朝に使者を派遣していくことで、進んだ文明とともに「文字」にも触れていく機会が多くなっていったようです。日本国内で「文字」を本格的に使用した書物がつくられたのは奈良時代の頃です。それまでの日本の歴史や伝承についてまとめた『古事記』が712年に、『日本書紀』が713年に完成しました。その編纂が始まったのは681年頃とされており、30年程の長い時間をかけてつくられた「歴史書」です。その後も「歴史書」の編纂事業が続けられるほかは、役所で「文字」を扱う程度であったことから、「本」は読み物ではなく国の歴史を書き残すものとされていたのです。

 それでは読書の文化はいつ頃から登場するのでしょうか。

 それは平安時代の頃です。奈良時代から役所で「漢字」が扱われることが一般的となり、「漢詩」とよばれる漢字を用いた歌もよまれるようになると、平安時代には「仮名文字」とよばれる日本独特の「文字」が発明され、「かな文字」を使用した読み物がつくられるようになったためです。「仮名文字」は、現在私たちが使用している「片仮名」と「平仮名」のことです。読書を楽しむようになったのは、上流階級の貴族たちに限られており、代表的な作品に『源氏物語』があります。作者である紫式部が、当時の貴族社会を舞台に描いた作品であり、当時の実態を知る手がかりともされています。(現在、主人公である光源氏が現在にあらわれたらどうなるのかを描いた人気コミックをドラマ化した作品がNHKで放映されていますね。)多くの現代語訳がつくられ、漫画でもいくつもの作品がつくられているので、みなさんの中にも読んだことがある人がいることでしょう。当時の貴族社会でも、女性を中心に流行した作品であったようです。とはいっても、現在のように印刷技術は発達しておらず、原本を見ながら書き写すことでしか「本」を増やすことができないため、限られた数冊を回し読みしていたようです。また、当時の読者は上流階級のみに限られており、庶民のもとに「本」が行き渡ることはありませんでした。

 庶民に「読書」が広がっていったのは江戸時代の頃です。「本」の売買もされていましたが、購入できるのは富裕層が中心で、庶民たちは、今でいうレンタル本と同じように代金を支払って「本」を借りる「貸本」を利用することが多かったようです。その貸本屋を営んでいた人物として広く知られていのが蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)です。「つたや」と聞くと、現在の大手チェーン店を思い浮かべてしまいますね。(ちなみに、両者のつながりはなく、蔦屋重三郎にあやかりたいという思いから大手チェーン店の名称に使用されているそうです。)蔦屋重三郎は、江戸時代中頃の1770年代に耕書堂を開き、たくさんの有名な作家や絵描きをプロデュースし、その作品を販売していった人物です。280年以上続いた江戸時代は、大坂や江戸など都市部を中心に庶民文化が花開いた時代でもあり、庶民の間では「読書」も流行するようになっていきました。中でも人気があったのは、洒落本や黄表紙といった滑稽さや風刺を描いた作品であり、貸本でも予約をして待つ人たちまでいたそうです。1800年以降には、恋愛を扱った人情本や歴史を扱った読本なども人気を博し、都市部の庶民層でも「読書」文化が根付いていきました。地方や農村部でも寺子屋などで読み・書き・そろばんの習得が進み、明治時代の近代化を進める力となっていきました。

 明治時代に入ると、森鴎外や夏目漱石など文豪といわれる作家が数多く活躍していきます。新聞や雑誌も数多く出版され、情報の伝達も加速化していきました。大正時代には、文字通り1冊1円の「円本」が売り出されて大ヒットしたほか、発行部数が100万部を超える新聞や雑誌も出てくるなど出版の大衆化が進んでいきます。当時の1円は米10キロと同額であったことを考えると、今現在はより安価に「本」を購入できる環境が整っていることが分かります。

 現在は、Web上でも閲覧できる電子書籍など多様な形態がありますが、この機会を活用して家にある「本」を読んでみるのはいかがでしょうか。今まで味わったことのない世界観や初めて知る知識など、新しい出会いもあるはずです。過去の人々がしてきたように、読書を通じて自己の想像力を広げてみませんか?

 

江戸時代の鎖国とは何か

 「鎖国」と聞いて、みなさんはどのような状態を思い浮かべますか?

 文字通り国を閉鎖していると思うでしょうか?

 実は「鎖国」という言葉は、来日経験のあるドイツ人医師ケンペルが書いた書物『日本誌』の一部を、19世紀初めに蘭学者志筑忠雄が訳した際に使われた言葉です。つまり、「鎖国」体制が完成したとされる江戸時代初期に「鎖国」という言葉は存在せず、江戸幕府も「鎖国」をするとは宣言していないのです。しかし、私たちが日本史を学ぶ上では、「江戸幕府が鎖国体制を成立させた」という文章が何度も登場するのは不思議なことですね。この「鎖国」の例は、教科書などにも載っている一般的な歴史用語が当時使用されていたとは限らないということをよく表しています。(他にも「聖徳太子」「鎌倉幕府」「本能寺の変」などがあげられます。)

 さて、それでは「鎖国」とはどのような状態を指すのでしょうか?

 「鎖国」が完成したといわれるのは1641年のことです。この時点で幕府は貿易を全面的に禁止したのではなく、相手国を中国とオランダに限定しました。相手国を限定して幕府のみが貿易をする体制をつくったのには、2つのねらいがあったと考えられています。

 1点目は、「キリスト教の禁止」です。当時の日本でキリスト教の布教を積極的におこなっていたのが、ポルトガルとスペインでした。両国の人々を南蛮人と呼んだことから、両国との貿易は南蛮貿易ともいわれて盛んにおこなわれました。それによってヨーロッパの進んだ文物がもたらされるようになったのですが、日本にとっては大きな問題があったのです。それがキリスト教の布教です。両国は、相手国にキリスト教信者を増やし、やがては領土をも侵略してしまうやり方で他国を植民地化していました。それを防ぐために幕府はキリスト教の禁止を強化したのに対し、当時の日本国内でもキリスト教徒が中心となって幕府への反乱を起こした島原の乱(1637年)が起こるなどしたため、南蛮貿易は1639年に停止され、その後もキリスト教の禁止が徹底されていきました。当時の禁教下における日本の様子は、最近映画化もされた遠藤周作の小説『沈黙』で印象的に描かれています。

 2点目は、「幕府が貿易の利益を独占するため」です。豊臣秀吉の時代から、海外との貿易は大名や商人に許可されていました。以後、貿易や人々の海外への移動は拡大し、東南アジアでは各地に日本人が移住して「日本町」がつくられるほどになりました。それに伴い、貿易額も大きくなって経済力を高める大名が増えました。そのため、幕府は大名たちの力を押さえ、貿易による莫大な利益を独占するために制限を加えるようになったのです。

 この「鎖国」とよばれる状態は、1854年の日米和親条約締結によって「開国」へと変化していきます。200年以上も続いた「鎖国」状態が解かれ、西欧各国との関係を広げていく日本では江戸幕府が倒され、明治維新とよばれる近代化の嵐が吹き荒れていくことになります。その様子については、授業で一緒に学んでいきましょう。

  

 

日本史Aを学習するにあたって

「日本史A」では、近現代史を中心に学んでいきます。

近現代史は、「近代史」(明治時代~アジア太平洋戦争終了)と「現代史」(アジア太平洋戦争以降~現在)をまとめた呼び方です。明治時代以前については、3年次の選択科目である「日本史B」で学ぶことになります。

 

さて、みなさんは 「沖縄戦」と聞いていつ頃のことか分かりますか?

  本年度の「日本史A」では、最初に「沖縄戦」について学んでいきます。1945年3月から始まった、沖縄における日本軍と米軍との攻防を「沖縄戦」とよんでいます。アジア太平洋戦争も終盤に差し掛かった時のことでした。この戦いでは、日本軍兵士と沖縄県民のあわせて約20万人が死亡し、米軍側でも1万人以上が死亡するなど激しい戦闘がおこなわれた記録が残っています。

 今は観光産業が盛んで明るいイメージのある沖縄ですが、現在に至るまでどんな歴史をたどってきたのか。沖縄戦はどうして起こったのか。まずは「沖縄戦」の概要について学んだ後、明治時代からの日本の歩みについて学んでいきます。 

 「沖縄戦」について、以下のホームページで調べることができます。修学旅行でも訪問予定の施設です。興味のある人は、ぜひ立ち寄ってみてはどうでしょうか。

 

沖縄県平和祈念資料館

http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/

進路資料室を活用しよう

進路指導部2学年担当からお送りします。

みなさんは、「進路資料室」がどのあたりにあるか分かりますか?

「進路資料室」は、2階の中ほどに位置しています。この部屋では、みなさんの進路に活用できる様々な資料が閲覧できます。2年生の2学期になれば、いずれの進路先でも受験まであと1年となります。進路の目標を定め、実現させるためにも、「進路資料室」を活用してください。

 それでは、「進路資料室」の紹介をしていきます。

 部屋に入って左側の棚には、手前から「大学・短大」「専門学校」「就職」のパンフレットや試験に関わる資料が並べられています【写真①】。興味のある学校や企業について、まずは資料を手に取って調べてみましょう。部屋の中央にある机を利用してメモを取ることもできます。近年、Web上では、パンフレットから願書まで全てを掲載している大学、キャンパスツアーや授業を体験できる学校もありますので、調べる際にはインターネットも活用してください。

 右奥には、就職の求人票が業種別のファイルにまとめられています【写真②】。たくさんの会社から求人票がきていますので、隣の進路指導室に立ち寄って求人票の調べ方を教えてもらいましょう。相談しながら調べていくうちに興味のある企業に出会えるはずです。

 右手前には、大学の赤本コーナーがあります【写真③】。受験勉強において、過去問は必ず取り組まなければならないものです。大学によって問題の傾向が変わりますので、相手の特徴を知り、普段からの勉強方法にも生かしていくことで合格に近づいていきます。2月の説明会で話した通り、推薦を考えている生徒も一般受験の準備が必要となりますので、ぜひ活用してください。 

 いずれの資料も閲覧用ですが、廊下の机上には持ち帰り可能なコーナーもありますので、定期的に立ち寄ってみるといいでしょう。尚、「進路資料室」は飲食禁止ですのできれいに使用してください。

 まずは一度「進路資料室」を利用してみましょう。合わせて質問もお待ちしています。

            「進路資料室」入口

  【写真①】             【写真②】

         

  【写真③】

          

なぜ日本史を学ぶのか

 2学年の日本史担当からお送りします。今回は、「なぜ歴史を学ぶのか?」について触れていきます。

 短くまとめると、歴史的事象から同じ過ちを繰り返さず、先人たちの知恵に学ぶことで、私たちが生きる現代社会の環境をよりよくしていくためです。何だか少し難しい感じになってしまいますね。

 

 もう少し具体的な例を挙げてみます。

 14世紀ころのヨーロッパでの話です。

 当時のヨーロッパでは感染症の一つ「ペスト=黒死病」が流行し、人口の3分の1近くが亡くなったと言われています。とくに都市部では人口密集が起こり、道路には泥やほこりが充満している不衛生な状況であったため、急速に広がったようです。さらにキリスト教中心のヨーロッパ社会では、異教徒であるユダヤ人原因説がささやかれ、その迫害が各地で起こり虐殺までおこなわれてしまいました。目に見えないウイルスに対する恐怖が罪の無い他者を攻撃する結果につながった、二度と起こしてはならない出来事です。その一方で、イタリアでは感染者の隔離とともに感染のチェック体制がつくられていた記録が残っており、現在の状況と似た対策もとられていたことが分かっています。

 

 実は日本でも今と同じような事態が起こっています。

 江戸時代の終わり頃、「コレラ」とよばれる感染症が流行するようになりました。1879年と1886年には大流行し、年間10万人以上の方々が亡くなったと言われています。感染した方々が次々に亡くなっていく様子から「コロリ」と呼ばれて恐れられていたようです。当時の日本は、14世紀ころのヨーロッパと同じように、都市部での人口急増と密集化が進み、不衛生な状態が問題となっていました。感染拡大防止のため患者の隔離もおこなわれましたが、医者や役人を襲撃する農民騒動が起こってしまいました。コレラ患者の死亡率が高いため隔離されると大半が亡くなり、伝染病についての知識や衛生の考え方も浸透していない時代であったからです。その様子を知った外国人から「手洗い」の習慣を教えられ、1900年以降になると、港での検疫の強化、医療・衛生設備の改善なども進みコレラの死者は激減したそうです。

 以上のことから分かることをまとめます。

・感染拡大の原因が、人々の密集化にあること。

・宗教・民族差別や医療従事者への偏見が生じてしまったこと。

・感染症対策として、衛生管理や感染者の隔離が一定の効果を挙げていること。

 

今現在と比べてみるとどうでしょうか?

 

人々の密集化を避けるため外出自粛がうながされ、専門家は「他者との接触を8割減少」させる必要があると訴えています。残念ながら、現在においても医療従事者への偏見から保育所の預け入れを拒否される事例も発生しています。人命救助のために奮闘する医療従事者に対しては、敬意が払われなければなりません。そしてやはり、感染症対策としては「手洗い」「うがい」が一定の効果を挙げるとされています。

先人たちの知恵に学びながら、改めるべきことは改め、この難局を乗り越えていきたいですね。

「日本史」や「世界史」の授業を通して、歴史から学び、今後につなげていきましょう。

修学旅行事前学習始まりました

2月6日木曜日。

本日の総合的な探求の時間から、2年次に行われる修学旅行の事前学習が始まりました。

 

修学旅行担当の坂巻教諭が、修学旅行の意義、沖縄について、映像等を交えて説明しました。

修学旅行に行くまでに少しでも知識を増やして沖縄へ行ってくださいね。

 

がんばれ40期生!!

  

養護教諭による「メンタルヘルスリテラシー授業」を実施しました。

 本校では、生徒が「こころ」の不調に陥った時に自分自身がどのように考え対処すべきか、また、家族や友人をはじめ周囲の人たちはどのように対応すべきかを学ぶため、平成27年度から第1学年の生徒全員を対象として、養護教諭による「メンタルヘルスリテラシー授業」を実施しています。

 この取り組みは、本校の養護教諭が専門的な知見を持つ大学や学会と連携して実践するもので、本年度も12月から1月末までの期間に、総合的な探求の時間やロングホームルームの時間などを活用して、クラスごとに実施しました。

 教育相談に関する取組を推進している本校では、スクールカウンセラーによるカウンセリングとともに既に定着した取組となっていますが、近年、学校現場における教育相談に関する取組の重要性が注目を集める中、本校の取組が先進的な取組として評価され、本年度は文部科学省職員や埼玉県教育長をはじめ、埼玉県保健体育課や生徒指導課の職員、大学教授や学生、県内の養護教諭など、たくさんの方が授業を視察しました。

 生徒たちは、たくさんの視察者が見守り多少の緊張感に包まれながらも、相談をする側とされる側の両方の役柄を実践し、どのように考え対応すべきかを体験を通して学ぶことができました。今後も、本取り組みをはじめ、きめ細かな指導を実践していくとともに、生徒にとって安全・安心で快適な環境づくりに努めてまいります。